2006年9月 1日 (金)

清朝の台湾統治 2

台湾への移民者たち

清朝は厳しく移民を制限していたが、広東省と福建地方の住民の密航は後を立たなかった。

その理由は、清朝が鄭一族を封じ込める為実施した「遷界令」が原因である。

この政策で、内陸部に押し込められた住民は、生活の糧を農業に求めた、しかしこの一帯は農業に適した土地が少なく生活は苦しく新天地を求め多くの住民は台湾へ密航した。

そして、「船頭」「客頭」と呼ばれる密航を手引きする者達も現れた。

しかし、この密航の際使用される船は漁船の様な船が大半で、台湾海峡を渡るのは相当な危険が伴い、密航の成功率は三割程度だったといわれている。

危険な航海を無事に終え台湾にたどり着いたものの、多くの移民達は職も家も無く浮浪者となって、死んでいった。

また運良く土地や職にありつけた者達も、深刻な嫁不足に悩まされた。

これは清朝が独身者のみに移民を許可していたためで、ある記録では257人中1人の女性しかいない村も存在した。

その為多くの移民者達は先住民族と結婚し、結果先住民族の漢民族化に拍車がかかることとなる。

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2006年8月27日 (日)

清朝の台湾統治 1

清朝の台湾の統治方針

鄭一族の勢力を排除した清はその後の台湾の処置をめぐって、台湾を清の版図に加えるか否かで意見が分かれる。

大多数の人間が、蛮族と海賊の巣食う小さな島を版図に加えても管理する労力の無駄であるから、台湾はそのまま放置すべきであると主張した。

東寧王国討伐を果たした施琅(スーラン)が、これに異を唱える、もし台湾を放置すれば大陸南東部の沿岸部の護りは難しくなり、加えてオランダに再び占領されるは必至、また海賊の拠点として活用される可能性も大きい。

最終的に施琅(スーラン)の意見を聞き入れた皇帝が反対意見を押し切り、1684年4月福建省の一部として清朝の版図に台湾は加えられる事となる。

台湾の統治方針は、今まで反抗勢力の拠点として活用されていた事もあり、反抗勢力と海賊対策に重点を置かれたものとなった。

台湾を統治する役人は三年交代で家族の同行は許されなかった。

またそれは、駐在する軍隊も同じで、妻帯者のみで構成され、彼らも家族の同行は許されず、必ず三年で交代した。

彼らの家族は実質人質で、反乱の防止である。

移民も厳しく制限され、三禁といわれた法律が作られた。

1 移民する際は必ず清朝の許可をとる。

2 独身で家族の同行は許されない。

3 海賊に福建省と広東省出身の者が多い為、福建省と広東省の人間は移民できない。

以上の三つである。

これらの清朝の台湾の統治方針からわかるように、清朝はオランダのように台湾の拠点として活用するような考え方は無く、ただ国防の為に仕方なく統治せざるをえない厄介な島でしかなかった。

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2006年8月11日 (金)

東寧王国の台湾統治 2

東寧王国の成立

台湾に撤退してからの鄭経は、清朝の打倒を諦めた様である、この頃、腹心の陳永華や清朝の使者にも全く清朝打倒の意思は無いと伝えている文献が残されている。

東都の名を東寧と改め東寧王国成立させる。

貿易相手の西洋諸国もこれを認めたようで、鄭経を「The king of Tyawan」と呼び、書面で陛下という言葉使っている。

鄭経は実際の政治はほとんど腹心の陳永華に任せている、以後陳永華主導のもと儒教教育と国際化という二本柱で王国は運営されていく。

まず儒教教育の手始めとして1666年今も台湾に残る聖廟を完成させ、ここを儒教教育の総本山的位置づけとした。

そして中国の科挙制度を導入、積極的な人材の発掘に努め、地方の自治制度も中国にならった。

そして、台湾の貿易に有利な条件を生かして、今まで通り貿易に力を入れていく。

1670年にはイギリスと公式な通商条約も結んでいる。

しかしあまりにも貿易に力を入れる政策は国内に、徐々に重商主義を蔓延させていった。

東寧王国の終焉

1673年に清に対して雲南省の呉三桂と福建省の耿静忠と広東の尚可喜が反乱を起こす。

三番の乱である。

1674年自分の軍事力に自信が無い耿静忠は経に対し漳州と泉州の支配させる事を条件に出兵を要請。

経はこれに乗る。

陳永華に国を任せて、経は自ら軍を率い中国大陸に赴いた。

耿静忠は、経の軍団の実力に疑問を抱いたようで、経との条約を破棄する。

その為、経は孤軍奮闘、海澄、泉州、漳州、潮州を占領、福建省と広東近海の海も制海権も奪う。

そして広東に進軍。

この戦いぶりを見た耿静忠は経との関係を修復しようとするが、経はこれを拒否。

その後、清の軍団に包囲された耿静忠は、清に投降、そのまま清の軍団に編入され経と戦う。

耿静忠の軍団も加えた清は、反撃を開始。

この反撃を押し返せず経は、廈門 金門 まで撤退。

清は投降した者に賞金与え、反乱軍の切り崩しを図る、これに投降する者が続出。

1679年清は総攻撃を開始、1680年2月経は台湾に全面撤退、戦の始まりから六年が経過していた。

この六年の戦いで東寧王国は経済、軍事力共に修復不可能な打撃を受けていた。

1680年にはイギリスも東寧王国に見切りを付け、商館を撤収させている。

経が台湾に戻って五ヵ月後の1680年7月経を政治面から支え続けた陳永華がこの世を去る。

二度に渡る清打倒の失敗、陳永華の死、経は酒に溺れ1681年、父成功と同じ39歳でこの世を去る。

経の死後一族の中で、血で血を洗う後継者争いが勃発。

それを制したは溤錫範。

幼い鄭の血を引く鄭克塽(ジェンカァシュアン)を後継者にすえ、自分はその後継人として、自分の意に沿わぬものを次々と、排除していった。

しかしその強引な政治に、国民は動揺、先住民族たちも反乱を起こす。

混乱の東寧王国、これを好機と観た清は武力解決に乗り出す、元成功の部下で清に投降した施琅(スーラン)に
東寧王国討伐を命じた。

1683年六月、二万の軍勢と三百隻の軍艦を率いて施琅(スーラン)は彭湖列島に上陸、彭湖列島を守護する劉国軒と激しい戦いを繰り広げられる。

結果は、劉国軒は台南へ敗走、武将41名が戦死、武将155名兵士4800名が投降、軍艦100隻あまりが沈没という圧倒的敗北に終わる。

この知らせを受けた東寧王国では、一部の人間がフィリピンのルソン島に逃げ延びて反撃をするなどの主張をしたが、7月19日に施琅(スーラン)の使者の投降勧告を受け入れる事が決まった。

8月13日施琅(スーラン)が台湾に上陸、五日後の18日、頭を弁髪にした鄭克塽(ジェンカァシュアン)と武将文官合わせて100名が投降した。

王国の誕生からわずか10年、東寧王国は滅亡する。

これ以後、台湾は清によって、統治される。

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2006年8月 4日 (金)

東寧王国の台湾統治 1

東寧王国誕生の経緯
鄭成功死後の後継者争いの経緯

鄭成功の死後、後継者争いに二人の男が名乗りを上げた。

鄭成功の異母兄弟で弟の鄭襲と、息子の鄭経である。

まずは鄭襲が東都、現在の台南を拠点に名乗りを上げる。

そして、経が明朝皇室の寧靖王を味方につけ、自分が正統であると主張し、廈門を拠点とした。

清はこの内部分裂を、見逃さず、経に投降の交渉を呼びかける。

経は清との交渉を受けながら、叔父との戦いを開始する。

経は父の有力な部下であった陳永華の協力を受け、この戦いに勝利する。

その後、台湾を部下の黄安に統治させ、1663年廈門に自身は戻る。

鄭経の東寧王国建国の決断の経緯

経が廈門に戻ってから、長崎の金庫番を務める鄭泰と対立関係になる。

経は、鄭泰を投獄する。

それに反発した、鄭泰の弟、鳴駿と鄭泰の息子で四千の兵と軍艦百隻をつれて、清に投降。

鄭泰はその後、獄中で自決。

清は投降した鳴駿を軍勢に加えて、1663年オランダとの連合軍を結成、金門と廈門を攻める。

経は金門と廈門放棄、銅山という山に篭って戦うが、部下達の動揺が激しく、離反者が続出。

離反者の流出はとめられず、最終的に合計して、文官4000人兵士4万人、軍艦900隻という兵力の四分の一にあたる離反者をだす。

四ヵ月後の1664年3月、中国大陸の拠点をすべて放棄、台湾に全面撤退。

その時、父の成功に協力していた、明朝の残党約七千人も経について台湾に渡る。

これで清の主だった反抗勢力が台湾に集結することとなる。

台湾に撤退した経は、台湾を自分が支配する独立国家へ本格的に作り変える為に動き始める。

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2006年7月28日 (金)

総括 1

この間の記事で、台湾と大航海時代は終わりだ。

チューことで、ここらで感想を書いて総括としたと思う。

台湾の歴史で最も重要なポイントは、その位置だ。

太平洋に位置し中国と日本にも近い島、早い話が便利ちゅーわけだ。

もし不便な位置にあったなら、多分、原住民だけが住む島だっただろう。

原始時代から書いて、一気に大航海時代にまで飛んだのは、それまでの時代が先住民族だけが住む島で、その間色々な事はあったろうが、先住民族は文字を持っておらずまったく昔何があったか分からないからだ。

それに、台湾と言う小さな島に多くの部族が共存していた事を考えると、多分、大きな争いもなく平和にやってたんだと思う。

だが便利チューことで、オランダやらスペインやら海賊やら難民やら鄭成功が来たわけだ、まぁ後からもっと来るわけだがそれは、後で書く。

鄭成功についてもう少し補足しておくと、台湾では英雄的存在だ、とにかくイメージはいいし誰でも知ってる。

理由は、オランダを追い出して、台湾を統一したから(蒋介石がイメージ戦略に鄭成功を使ってたって理由もあるが)。

とは言え、前の記事を読んでもらったら分かるが、鄭成功自身は別に台湾が便利だからきただけで、特にオランダの圧制に苦しむ先住民族や中国移民を救おうとしたわけじゃない。

だいたい、その移民も親父の代から鄭成功自身がオランダとがっちり手を握って親子二代で進めて来たプロジェクトXだしな。

俺個人としては鄭成功には、あまりチューか全然魅力を感じない。

どちらかと言えば、父親の鄭芝龍(ゼェンジィロン)の方がカッコいい。

親父の妾に手を出して、家を追い出せれてから各国を放浪して、いつのまにか、国に海賊行為を認められる『海防遊撃』なんて、ワンピースの王下七武海を地で行く人生を送った鄭芝龍(ゼェンジィロン)の方が渋い。

まぁ晩年はちょっと冴えなかったけど。

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2006年7月26日 (水)

大航海時代と台湾 8

オランダの台湾植民地支配の終焉の経緯

1664年、明朝は満州の女真族に滅ぼされ、女真族は清朝を起した。

しかし1645年、中国南部に逃れた明朝皇族遠縁と名乗るもの達が、二つの亡命政権を樹立。

一つは福建省に自らを隆武皇帝と名乗り、もう一つは広西の永暦皇帝。

両者とも、海獠の有力者鄭芝龍(ゼェンジィロン)を後ろ盾に、『反清復明』を唱え清朝に戦いを挑んだ。

翌年1646年、、鄭芝龍(ゼェンジィロン)は不利な戦況を悟ると、清に投降してしまう。

隆武皇帝も福建州にて死亡。

しかし、鄭芝龍(ゼェンジィロン)の勢力基盤あくまで海にあり、その意思と共に息子鄭森(鄭成功)に受け継がれるのである。

鄭成功という男

鄭成功は、1624年に日本で日本人の母親と鄭芝龍(ゼェンジィロン)の子として生を受ける。

その後七歳まで日本で暮らし、七歳から十五歳までは福建省に移り住み父から漢民族としての教育を受ける。

15歳からは、福建省や南京で学生として、生活する。

21歳の時に、父の計らいで隆武皇帝に会い、その時隆武皇帝から『朱』という苗字と『成功』の名前を賜る。

そして、永暦皇帝からは、『延平郡王』という名も賜っている。

鄭成功には様々な呼び名があり、幼少時代が『福松』、少年期は『森』、そして『成功』、この『鄭成功』が一般的にひろく知られている名前であるが、『国姓爺』という名も親しまれている。

父鄭芝龍(ゼェンジィロン)が投降し若き『海獠』(ハイリァオ)の頭領となった鄭成功は自らを『忠考伯招討大将軍罪臣国姓』と名乗り、清朝打倒の為、軍を再編成し、勢力の増大に努める。

1658年には、勢力範囲は、廈門,南澳,泉州、同安一帯にまで及び、兵力は戦艦三千隻、部下十七万人となっていた。

また強力な勢力を維持、拡大のために、父の海運事業も受け継ぎそれも日本、台湾、ジャカルタ、インドネシア、東南アジアと広く及んだ。

1654年までに杭州と廈門に「山路五商」と「海路五商」と言う二つの貿易会社を設立、その当時の中国の貿易船の74%は鄭成功は所有であり、国内外の貿易を完全に牛耳った。

その事態を重く見た清朝は、鄭成功の財源を断つ為、1656年「遷界令」を発布。

海岸付近に住む住人を内陸に二キロ強制移住させ、柵を作り海に近づく事を禁じた。

しかし鄭成功はたびたびこれを、突破しては貿易を続け、清朝は鄭成功に損害を与えたものの、財源を断つまでにはいたらなかった。

鄭成功はそれらの作業と同時に、清朝と計六度にもわたる交渉を重ねている。

その交渉中、清に包囲された永暦皇帝が何度が救援を頼んだが鄭成功はこれを無視している。

当初、清朝は「海澄公」という地位を鄭成功に授け懐柔しようとした、しかし鄭成功の要求はそれに加え、福建省と広東省全土、潮州、恵州、温州、台州、薴波、紹興、処州五府の土地、と辮髪(べんぱつ)の拒否であった。

辮髪

辮髪(べんぱつ、弁髪)は、北東アジアの民族の習俗で、頭髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして編んだ髪型。満州族の前頭部を剃り後頭部を伸ばすスタイルが有名だが、契丹族の頭頂部のみを残すスタイルや、モンゴル族の両側頭部を残すスタイルなど、民族によりさまざまなスタイルの辮髪があった。日本の丁髷も辮髪の一種といえる。

満州族(女真族)が清朝を樹立(1644年)すると、敵味方の区別をするため順治帝の摂政ドルゴンは漢民族にも「薙髪令」を1644年と1645年に出し、辮髪を強要した。儒教では毛髪を含む身体を傷つけることは「不孝」とされ、タブーであった。そのため、漢族は辮髪導入に抵抗したが、清朝は辮髪を拒否するものには死刑を以って臨み「頭を残すものは、髪を残さず。髪を残すものは、頭を残さず」と言われた。

19世紀までには辮髪は完全に普及し「中国的な風習」と見なされるようになり、辮髪をやめていた太平天国の乱の民族革命軍を「長髪賊」と呼んで弾圧したほどである。しかしながら、近代になると「反清」を標榜する証として辮髪を切る者も現れた。

清朝の時代であった1911年まで「薙髪令」は続き、辮髪は民族としての義務となり、僧になり出家した者と禿頭(とくとう)以外でこの辮髪にしない者は死刑を含む処罰をされた。

実際の日常では、体を大きく動かす動作の際に辮髪が地面に触れて汚れたり邪魔にならぬよう、縄状の毛髪部分を衣服の襟首に巻き付けたり、鉢巻の様に頭に巻くことが多かったという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

しかし、この辮髪の拒否が受け入れられず、交渉は一時決裂。

その後、鄭成功は態度を軟化させ、使者や貢物を清朝に送り、交渉を再開させる。

清朝も、投降した鄭成功の父を交渉に使い鄭成功を説得するが、最後には辮髪の問題で決裂。

しかしこれは一説には、鄭成功の時間稼ぎであったとも言われている。

1659年、鄭成功は他の反清朝勢力と共に、清朝に侵攻を開始。

長江、南京、鎮江、一帯の占領するも、清朝の反撃に廈門まで撤退を余儀なくされる。

しかし、この時同時に北京に蔡政という密使を送り和睦を計っている、しかしこれも辮髪の問題で決裂。

この侵攻以後、貿易にもかげりが見え始め、鄭成功も焦りを感じ始めていた。

そんな時、元父が所属していた『海獠』(ハイリァオ)集団の頭領で現在はオランダ政府と台湾のパイプ役となっている何斌(フービン)という男が、オランダ政府の使者として廈門を訪れた。

しかし、その交渉のさなか、オランダ政府に何斌(フービン)の不正行為が発覚、その追及を恐れた何斌(フービン)は、台湾南部の詳細な地図を手土産げに鄭成功の保護を受ける。

そして何斌(フービン)は、行き詰っていた鄭成功に台湾攻略を提案する。

その理由は、『台湾は農業に適した肥えた土地が大く、そのうえ硫黄も採掘でき、自給自足も容易い。
さらに島の位置も貿易に最適、すでに港などもオランダが整備してくれていて、さらに船の製造も可能。
兵士を移住させれば10年で根付かせ、新たな兵力の増強も容易い、その上、清朝と戦う上で、適した位置にあり攻撃するにも引くにも最高の場所である』

この言葉を聞いた鄭成功は、台湾攻略を決意、ほとんどの部下はこれに反対したが、その反対を押し切り1661年4月鄭成功は二万五千の兵を率いて、彭湖を攻めた。

その後、八ヶ月に及ぶオランダ軍との戦いを制して、鄭成功は台湾の制圧を完了、オランダは完全に台湾から撤退、38年に及んだオランダの植民地支配は終わる。

しかし、翌年1662年六月、鄭成功は清朝打倒を果たせぬまま突如死亡、享年39歳。

一説には、清朝が投降していた父親、その他親族11名を処刑、それを苦に狂い死にしたなど、色々な説があるが、正確な死因は不明。

鄭成功の死後、台湾は鄭氏に統治下に入る。

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2006年7月18日 (火)

大航海時代と台湾 7

スペインの台湾の植民地支配

16世紀大航海時代、オランダとスペインは、極東のその覇を賭け激しく争いあっていた。

両国にとって、アジアの北東地域と東南地域のちょうど真ん中に位置する台湾は、戦略上奪われるわけには行かない最も重要な拠点であった。

1596年から1567年にかけ、当時のマニラのスペイン総督は三度に渡りスペイン国王に対し、台湾占領の必要性を説いた手紙を送っている。

その進言が認められ、1598年スペインは軍艦二隻に200名の兵士を載せ台湾に向けて出発した。

しかし公開の途中に嵐に遭いこの台湾占領の計画は頓挫する。

そして三年後の1621年オランダとイギリスが連合艦隊を結成したその時、これに危機感を募らせたマニラ総督は再度台湾占領に着手する。

しかし、この動きがオランダにもれ1624年、スペインを出し抜きオランダは台湾の南部に侵攻。

オランダに遅れる事2年、1626年五月八日、フィリピンから出発したスペイン遠征軍は、台湾の北東部の海岸に念願の上陸を果たす。

上陸した遠征軍は海岸をサンディアゴと名づけた。

12日スペインは基隆と和平島を占領、基隆にFort san Salvador城を建設する。

その後も西へ向かい進軍、淡水に赤毛城の元となった城を建設、そして軍を二つに分け、台湾の北部を次々と占領していった。

台湾北部に住む先住民族たちも、スペインの侵攻を黙って観ていた訳ではなく抵抗をしている。

1632年に先住民族たちは、スペイン船を襲撃船員を58名殺害、スペイン軍が出動後、七つの部落が連合を組んで山岳地帯に篭いスペイン軍と戦う。

1633年、1636年にスペインの宣教師を殺害。

その一方、スペイン人宣教師に従ってキリスト教に改宗した先住民族も多い。

その理由は、宣教師達は先住民達の天然痘等の治療を行なっていた為である、命を救われたものやその家族がキリスト教へ改宗していった。

1640頃には約四千人の先住民がキリスト教に改宗し、淡水に薔薇聖母堂が建てられている。

スペインは着々と台湾の植民地化を進めて行った。

基隆に同時に22隻もの船を停泊できる港を築き、積極的に貿易を行なった。

また、淡水と北投に漢民族を移民させ、彼らと先住民族に硫黄の発掘や鹿皮の輸出を行なわせた。

しかし、スペインの植民地支配は数々の困難が伴った、北部は南部に比べて気候が悪く、その上既にオランダは南部を発展させていたために、北部に移住したがる漢民族の数は多くは無かった。

スペインが台湾占領の目標は大きく二つ、一つはオランダへの対抗とそれに平行して明帝国と日本との貿易を発展させる事。

もう一つは、台湾を拠点に明帝国と日本に布教活動を行う事、この二点である。

しかし、1633年に日本が鎖国政策を開始、オランダは日本との交易を認められていたもののスペインは認められず、貿易も布教活動も不可能となる、これにより台湾占領の目論見は、半分は崩れる事となる。

その上、一部の台湾先住民族の抵抗も激しく続けられていた、またスペインの別の植民地フィリピンではイスラム教系住民が不穏な動きを見せ始めていた。

1635年ごろにはスペイン内部でも、台湾からの撤退が検討され始めた。

そして1642年、オランダが北部へ侵攻、スペインは敗北し台湾から完全に撤退する。

こうして台湾はオランダ一国の植民地となった。

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2006年7月11日 (火)

台湾の大航海時代 6

オランダの台湾の植民地支配 3 反乱と統治

オランダは海獠(ハイリァオ)鄭芝龍(ゼェンジィロン)と手を結び、嘉義と雲林を譲り受け、そこに福建省と広東省から大量の移民を受け入れ、稲作やサトウキビの生産に力を入れていた。

オランダの植民地支配末期1660年頃の人口は、漢民族が3万人から五万人、台湾先住民族が15万人から20万人、総人口の約半分がオランダの支配下にあった。

オランダは支配下にあった人間に対し以下の税を課していた。

1 貿易税 安平の港を使用する船舶に課せられる税金。

2 狩猟税 漁猟と狩猟の両方に課せられた税金。

3 人頭税 満7歳児以上の人間に課さされた税金。

4 貨物交易税 先住民族だけに課せられた税金。

5 田畑税 主に漢民族に課せられた税金。

これら多くの税金は、植民地支配を受ける人々の生活をひっ迫させ、多くの反乱を誘発させた。

先住民族と漢民族の反乱

先住民族がオランダの38年間の植民地支配下で起こした反乱は7件、1629年新港の反乱、1635年麻豆等の反乱、1641年大武壟等の反乱、1635年卡拉陽の反乱、1636年小琉球の反乱、1644年淡水,
噶瑪蘭の反乱、1645年TACKAMAHAの反乱、どれもオランダに簡単に制圧されている。

数多くの反乱を起こした先住民族に比べ漢民族が起こした反乱はわずか一件。

1652年の郭懐一(グオホァイイー)の一揆である。

当時、大量の雨による不作とオランダによる重税で、漢民族の生活は大変苦しいものだった。

その状況を打破すべく郭懐一(グオホァイイー)という漢民族の有力者の一人が立ち上がった。

彼は当初、オランダ総督と他の有力者を宴会に招きその席で暗殺する計画を立てたが、その計画がオランダの知る所となる。

それを知った郭懐一(グオホァイイー)は、先手を打ち四千の民衆を扇動してオランダの政治的拠点であるpro-vintia城を攻撃。

しかし、すぐに駆けつけたオランダの120名程の兵士に蹴散らされ敗走。

その後オランダは先住民族のキリスト教徒から600人の兵士を調達、オランダ、先住民族の混成軍は敗走する郭懐一(グオホァイイー)を追撃。

郭懐一(グオホァイイー)は体制を建て直し反撃するも戦死、指導者を失った一揆は壊滅。

数の上では圧倒的有利ではあったが、オランダの兵士は当時の最新の武装をしており、勿論軍事的訓練も十分に受けていた。

それに対し郭懐一(グオホァイイー)の一派は、まともな武器も無い農民で、勝負は始まる前からついていた。

当時、オランダの支配を受けていた人口は少無い時でも10万人以上、それに対しオランダはわずか二千人強の兵力で統治を行なっていた。

いくら圧倒的軍事的に優位にあるとは言えこの数の差は如何ともしがたいものがある、そこでオランダは支配下にある人々をお互いに対立させ連携をさせないようにした。

漢民族と先住民族、先住民族内の部族対立、宗教的な対立、郭懐一(グオホァイイー)の一揆で追撃にキリスト教徒の先住民を使ったのもその最たる例である。

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大航海時代の台湾 5

オランダの台湾の植民地支配 2 台湾先住民族に対する統治方針

オランダが台湾を植民地にして12年目の1636年、オランダは先住民族に対する本格的な統治を開始した。

安平近隣の先住民族の各部族の代表28人を、伝道師juinusが召集した。

そして各部族に、オランダに対する服従を誓わせ、以後その会議を地方会議と呼称し先住民族統治の基礎とした。

代表の選出方法は各部族に委ねられたものの、各部族に牧師が派遣され、各部族を管理し命令に従わない部族に懲罰が与えられる事もあった。

1650年にはオランダの支配下に入った部族は315にも及び、地方会議の開催も大きく地域ごとに、四つに分けられた。

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2006年7月 5日 (水)

大航海時代の台湾 4

オランダの台湾の植民地支配 1 貿易拠点としての台湾

オランダは台湾南部を植民地化するにあたり、現在の安平にzeelandia城を建設。

これを軍事の拠点とした。

そして平埔族から赤崁を買い取り、倉庫や住宅を建てる、以後赤崁は商業街として発展していく。

また赤崁にpro-vintia城を建設、この城では主に政治を執り行った。

オランダ政府は台湾をアジア地区における、中継貿易の要として位置づけ、台湾を経由する商品に重税をかし、莫大な利益を上げた。

オランダ東インド会社のアジアに散らばる25の商館で、台湾商館の上げる利益は、一位の日本に次ぐ二位で、1650年には、一年の純利益が約4トンもの黄金に匹敵するほどであったと言う。

また1630年代には、日本への鹿皮の輸出の需要が高まった。

輸出された鹿皮は武士の陣羽織へと姿を変えた。

そのためオランダは、台湾原住民の平埔族に鹿狩りを奨励、1638年には一年間で15万頭もの鹿皮が日本へ輸出された。

現在の台湾では、野生の鹿は絶滅こそは免れたものの、高度の高い山奥にしかその姿を見ることは出来ない。

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2006年6月10日 (土)

大航海時代の台湾 3

オランダの台湾の植民地化の経緯

大航海時代の到来と共に、ヨーロッパ大陸の大西洋側に面した沿岸の国々は海運事業の発展の下、重商主義を掲げヨーロッパの外へ新しい世界を求め船を漕ぎ出した。

その頃、アジアの海域では、三つの勢力が激しく対立していた。

明帝国からマカオを間借りしているポルトガル。

フィリピンのルソン島を植民地にしていたスペイン。

インドネシアを拠点にしていたオランダ。

この三つの国家にとって、南太平世の島々、中国、日本は植民地の対象でしかなかった。

オランダ、スペインこの両国の思惑は、鎖国的政策をとる明帝国の開放であったが、明帝国の態度はかたくなであった。

その為中国に近く、また南太平洋の中国と日本の中間に位置する台湾と澎湖列島(台湾の南に位置する)の両国の戦略的価値が高まるのは必然であった。

1602年オランダは『東インド会社』をアムステルダムに設立。

このオランダの東インド会社は計六社に及ぶ共同出資で成り立ち、オランダ国会から次の権利を与えられていた。

植民地の主権者との直接交渉及び条約の締結、軍隊の駐屯、要塞の建設、通貨の発行、現地の地方長官及び裁判官の任命。

そして政府から軍事力の提供、損失の補填も認められていた。

創立から13年で、保有する武装商船は八百隻、拿捕した敵商船は五百四十にものぼった。

1609年には日本の平戸に商館を設立、1619年現在のジャカルタに現れたイギリスを撃退、そして要塞を建築し、軍隊を駐屯させ、ジャカルタをオランダのアジアでの植民地計画の本部としていた。

オランダが明帝国との貿易を解放させる為には、マカオの占領は必須であることは明らかであった。

しかし、マカオにはポルトガルがいる。

何度も明帝国との交渉を試みるオランダであったが、その度にポルトガルの妨害で失敗していた。

その為、オランダはその矛先をマカオから台湾と澎湖列島に変更したのだった。

元々、明帝国は澎湖列島に対しては『墟澎』という、消極的な政策でしか対応していなかったのだが、オランダの侵入は認めず、オランダの澎湖列島侵攻三ヵ月後に、沈有容将軍を現在の金門に派遣した。

将軍はオランダの代表に、明帝国は澎湖列島へのオランダの進出を認めない事を伝える。

オランダは澎湖列島の侵攻は困難と判断、一時的な撤退をする。

1620年オランダ、イギリスの連合艦隊は台湾海峡一帯を海上封鎖、ポルトガル、スペイン船のマカオへの航行と明帝国とマニラの貿易を妨害した。

翌年1621年、スペインのマニラ総督はオランダ、イギリスの連合艦隊に対抗する拠点を台湾に定め、台湾の占領を計画する。

しかしオランダはこの動きを察知、先手を打ってマカオを攻撃する計画を立てる。

もし仮に、マカオ攻撃が失敗に終わった場合は、そのまま、台湾と澎湖列島を攻撃する計画となった。

1622年6月オランダはマカオを攻撃するものの惨敗、同年7月計画通り澎湖列島へ進入、明帝国と対立。

1624年8月、オランダと明帝国が正式に交戦。

明帝国一万人対オランダ八百人。

しかしその時、台湾、日本中国南部で活動していた海賊の李日が両国の間に入り、三者協議を実現させる。

その協議での決定事項は三つ。

1、オランダの撤退。

2、明帝国はオランダの澎湖列島侵攻の責任をとわない。

3、明帝国はオランダとの貿易を認める、明帝国はインドネシアとオランダに商船を派遣できる。

1624年オランダは澎湖列島から撤退、その後台湾の南部、現在の安平を占領する。

こうしてオランダの台湾の38年に及ぶ植民地化が始まる。

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2006年6月 4日 (日)

大航海時代の台湾 2

大航海時代の梟雄 鄭芝龍(ゼェンジィロン)

鄭芝龍(ゼェンジィロン)は、福建の泉州南安で、地位の低い役人の子供として産声を上げた。

子供の頃の鄭芝龍(ゼェンジィロン)は、賢くヤンチャな性格であったと伝えられている。

また大人になってからは、学問に歌や舞踏にも長け、その多才振りを示した。

しかし18歳の時、父親の妾と関係を持ち、家を追い出される。

その後、マカオに流れ着いた鄭芝龍(ゼェンジィロン)は、九ヶ月間マカオで過ごす。

その時、キリスト教に入信し、ポルトガル語を勉強したようである。

その後日本行き商船に乗り込み、長崎で靴の貿易開始、日本人の妻をめとり、二人の子供をもうけた。

二人とも男子で、長男の名を『福松』次男を『七左衛門』と名づけた。

長男の福松は、後の鄭成功(ゼェンチェンゴン)である。

日本から帰国した後、彼は海獠(ハイリァオ)の一勢力として頭角を現し始める。

一説によれば、日本に滞在中に日本に亡命していた、海獠(ハイリァオ)の一人である顔思斉(イエンスーチー)の手下になり彼の死後その勢力を継承した。

鄭芝龍(ゼェンジィロン))は、現在の福建省から難民を大量に台湾の嘉義に移民させ、開拓をさせた。

1626年、鄭芝龍(ゼェンジィロン)は、台湾の南部に植民地政権を樹立させようとしていたオランダの援助も受け次第に大きくなり始めていた。

そして、鄭芝龍(ゼェンジィロン)は艦隊を率い廈門を攻撃、金門を占領、 閩粵(福建省と広東省)の沿岸一帯で強大な勢力を誇っていた。

1628年明朝は、鄭芝龍(ゼェンジィロン))の勢力の討伐の困難と判断。

鄭芝龍(ゼェンジィロン)の勢力を公認し、『海防遊撃』という公職を与えた。

その任務は、東南の海域の海賊の取締りである。

鄭芝龍(ゼェンジィロン)は、明朝の公認を受け他の海獠(ハイリァオ)の勢力を排除し、一方では植民地政権を樹立させたオランダ政府と条約を結び、東インド会社の経営する田園とサトウキビ農園に福建省から数万の難民を移民さた。

そして、その強大な勢力基盤を息子の鄭成功(ゼェンチェンゴン)に継承させるのである。

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大航海時代の台湾 1。

1 『海獠』(ハイリァオ)の出現

十七世紀以前、台湾は常に無政府状態の無法地帯であった。

その為、『海獠』(ハイリァオ)または『海寇』と呼ばれる、武装した貿易商人であり、また時に海賊行為も行なう海の男達の休息の場として活用されるようになる。

『海獠』(ハイリァオ)は十三世紀から十六世紀ごろにかけて、集中的に出現した。

その活動範囲は広く朝鮮半島、中国大陸の沿岸、台湾、南太平洋の島々にまで渡った。

十六世紀頃の『海獠』(ハイリァオ)の中心は日本人であり、日本の歴史上で言う『和寇』である。

十六世紀以降は華人出身者80パーセント近くを占める様になる。

しかし、西洋の新航路の発見や新大陸発見に伴い、『海獠』(ハイリァオ)の構成員の中にもポルトガル人やスペイン人やオランダ人も含まれ、船員同士の会話はポルトガル語が使用されていたようである。

2 『海獠』(ハイリァオ)と台湾とオランダの進出。

十六世紀、明朝は神出鬼没の『海獠』(ハイリァオ)の海賊行為を取り締まる名目で、『海禁』といわれる海上封鎖の政策を打ち出す。

しかし、貿易という役目も果たしていた『海獠』(ハイリァオ)の行動の制限は、農地の少ない沿岸の住民の生活に対して大打撃を与える事となる。

その為、住民の要請に答える様に特に福建地方の『海獠』(ハイリァオ)達が、その活動を更に活発化させていくことなり、更に生活に困った住民達が『海獠』(ハイリァオ)の戦力に変わっていったのである。

また台湾の住民も例外ではなかった。

1620年頃、無政府状態だった台湾をオランダが中国との貿易を絶つために占領、植民地政権を樹立。

それまで、政府も無く海賊行為を主に行なう『海獠』(ハイリァオ)の根城となっていた台湾は、大きくその姿を変えることと成る、それは同時に近隣の諸国の貿易にも多大な影響を与えた。

オランダは1625年7月に大員(現在の安平、台湾の南部の地名)の輸出品に10%の税金を課した。

そして、日本の商船の渡航を禁止したのである。

その為、日本側の商人の不満が爆発、浜田弥兵衛事件が起きる。

この事件は、オランダ総督に幕府の代表として抗議を行なった日本人商人浜田弥兵衛がオランダ側に軟禁されたという事件である。

軟禁されて約二年後、浜田弥兵衛がオランダ総督との面会中に、オランダ総督を人質にとる事に成功。

オランダ総督に数々の要求を承諾させ、貿易の再開に成功、総督を人質に日本への帰国を果たす。

しかし、その後日本は鎖国に入り、結局は貿易はオランダがその利益を独占することとなる。

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2006年6月 3日 (土)

台湾の先住民族。

台湾の先住民族はオーストロネシア語族に分類される。

オーストロネシア語族とは、南太平洋に住む人々のことで、インドネシア、マレーシア、マリポネシアなどの国である。

オーストロネシア語は約500種類にも分けられ、世界で最も種類の多い言語であり、約一億七千万人の人々が使用している。

またオーストロネシア語族の先祖は、台湾を起点に太平洋全体へと広がって行ったという説もある。

台湾の先住民族は『平埔族』と『高山族』に大きく分けられる。

十七世紀初頭、外国人達(オランダ人や漢民族)が台湾にやって来た時、最初に接触したのが平埔族であった。

その為、文明を取り入れる速度は速かった、しかしその為か現代でも少数ではあるが、現存している高山族に対し平埔族は完全に消えてしまった。

十七世紀以前の彼らの社会は、完全なる母系社会であり、財産の相続権や居住場所の決定権など様々な決定権は女性にあり、女尊男卑の文化だった。

しかし、漢民族の移民が始まり、その女性中心の社会も次第に変わっていった。

また清朝が1684年から1790年まで独身者以外の台湾への渡航を厳しく制限していた事もあり、現代の台湾人の大部分は平埔族の血が少なくともまじっていると言われている。

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台湾の歴史 『古代』

1 旧石器時代

約五万年前から一万五千年前にかけて、台湾では『長濱文化』と呼ばれる文化が栄えていた。

当時は世界的に見て、旧石器時代の終わり頃で、同時に第四氷河期の末期でもあった。

その当時の人々は、採集や狩猟や漁をして、生活していた、また土器を作ることも出来た。

当時、台湾海峡と中国大陸が陸続きであった為、大陸の南部から動物を追って、台湾にたどり着いた人類もいた様だ。

しかし、氷河期が終焉を向かえ、大陸と台湾の往来は不可能となる。

そして、孤立した長濱文化は五千年前に、突如その姿を歴史の舞台から消した。

その後現れた、新石器時代、金属器時代の文化にも長濱文化の痕跡はほとんど見られない。

それは、新しい段階の文化が、海を渡って台湾にやって来た可能性を示唆している。

2 新石器時代

その後、一万年前から四千年前にかけて新石器時代の『大坌坑文化』(ダーベンカン文化)が訪れる。

『大坌坑文化』(ダーベンカン文化)では、縄文土器や簡単な農業も始まった。

そして、四千五百年から三千五百年前頃に、「芝山岩文化」「圓山文化」「老崩山系統文化」「牛罵頭文化」「牛稠子文化」「墾丁文化」「塩寮文化」と数多くの文化が新石器時代の中期に現れ生活も稲作中心の文化に変わる。

三千五百年前から二千年前、新石器時代の終わり頃に現れた、「圓山文化後期」「植物園文化」「土地公山系統文化」「営埔文化」「鳳鼻頭文化」「麒麟文化」「大抗文化」などの文化は、遺跡に組織的社会を形成していた痕跡も見られる。

さらに墓などの跡も発見されている事から、霊魂などの観念も生まれていたようである。

そして、「十三行文化」「番子園文化」「蔦松文化」「亀山文化」「静浦文化」などに代表される新金属器時代をへて、先住民族の時代へと移行するのである。

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コーナー趣旨。

台湾の歴史ちゅーコーナーを作ってみた。

ここでは台湾の歴史を、書いていきたいと思う。

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