オランダの台湾植民地支配の終焉の経緯
1664年、明朝は満州の女真族に滅ぼされ、女真族は清朝を起した。
しかし1645年、中国南部に逃れた明朝皇族遠縁と名乗るもの達が、二つの亡命政権を樹立。
一つは福建省に自らを隆武皇帝と名乗り、もう一つは広西の永暦皇帝。
両者とも、海獠の有力者鄭芝龍(ゼェンジィロン)を後ろ盾に、『反清復明』を唱え清朝に戦いを挑んだ。
翌年1646年、、鄭芝龍(ゼェンジィロン)は不利な戦況を悟ると、清に投降してしまう。
隆武皇帝も福建州にて死亡。
しかし、鄭芝龍(ゼェンジィロン)の勢力基盤あくまで海にあり、その意思と共に息子鄭森(鄭成功)に受け継がれるのである。
鄭成功という男
鄭成功は、1624年に日本で日本人の母親と鄭芝龍(ゼェンジィロン)の子として生を受ける。
その後七歳まで日本で暮らし、七歳から十五歳までは福建省に移り住み父から漢民族としての教育を受ける。
15歳からは、福建省や南京で学生として、生活する。
21歳の時に、父の計らいで隆武皇帝に会い、その時隆武皇帝から『朱』という苗字と『成功』の名前を賜る。
そして、永暦皇帝からは、『延平郡王』という名も賜っている。
鄭成功には様々な呼び名があり、幼少時代が『福松』、少年期は『森』、そして『成功』、この『鄭成功』が一般的にひろく知られている名前であるが、『国姓爺』という名も親しまれている。
父鄭芝龍(ゼェンジィロン)が投降し若き『海獠』(ハイリァオ)の頭領となった鄭成功は自らを『忠考伯招討大将軍罪臣国姓』と名乗り、清朝打倒の為、軍を再編成し、勢力の増大に努める。
1658年には、勢力範囲は、廈門,南澳,泉州、同安一帯にまで及び、兵力は戦艦三千隻、部下十七万人となっていた。
また強力な勢力を維持、拡大のために、父の海運事業も受け継ぎそれも日本、台湾、ジャカルタ、インドネシア、東南アジアと広く及んだ。
1654年までに杭州と廈門に「山路五商」と「海路五商」と言う二つの貿易会社を設立、その当時の中国の貿易船の74%は鄭成功は所有であり、国内外の貿易を完全に牛耳った。
その事態を重く見た清朝は、鄭成功の財源を断つ為、1656年「遷界令」を発布。
海岸付近に住む住人を内陸に二キロ強制移住させ、柵を作り海に近づく事を禁じた。
しかし鄭成功はたびたびこれを、突破しては貿易を続け、清朝は鄭成功に損害を与えたものの、財源を断つまでにはいたらなかった。
鄭成功はそれらの作業と同時に、清朝と計六度にもわたる交渉を重ねている。
その交渉中、清に包囲された永暦皇帝が何度が救援を頼んだが鄭成功はこれを無視している。
当初、清朝は「海澄公」という地位を鄭成功に授け懐柔しようとした、しかし鄭成功の要求はそれに加え、福建省と広東省全土、潮州、恵州、温州、台州、薴波、紹興、処州五府の土地、と辮髪(べんぱつ)の拒否であった。
辮髪
辮髪(べんぱつ、弁髪)は、北東アジアの民族の習俗で、頭髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして編んだ髪型。満州族の前頭部を剃り後頭部を伸ばすスタイルが有名だが、契丹族の頭頂部のみを残すスタイルや、モンゴル族の両側頭部を残すスタイルなど、民族によりさまざまなスタイルの辮髪があった。日本の丁髷も辮髪の一種といえる。
満州族(女真族)が清朝を樹立(1644年)すると、敵味方の区別をするため順治帝の摂政ドルゴンは漢民族にも「薙髪令」を1644年と1645年に出し、辮髪を強要した。儒教では毛髪を含む身体を傷つけることは「不孝」とされ、タブーであった。そのため、漢族は辮髪導入に抵抗したが、清朝は辮髪を拒否するものには死刑を以って臨み「頭を残すものは、髪を残さず。髪を残すものは、頭を残さず」と言われた。
19世紀までには辮髪は完全に普及し「中国的な風習」と見なされるようになり、辮髪をやめていた太平天国の乱の民族革命軍を「長髪賊」と呼んで弾圧したほどである。しかしながら、近代になると「反清」を標榜する証として辮髪を切る者も現れた。
清朝の時代であった1911年まで「薙髪令」は続き、辮髪は民族としての義務となり、僧になり出家した者と禿頭(とくとう)以外でこの辮髪にしない者は死刑を含む処罰をされた。
実際の日常では、体を大きく動かす動作の際に辮髪が地面に触れて汚れたり邪魔にならぬよう、縄状の毛髪部分を衣服の襟首に巻き付けたり、鉢巻の様に頭に巻くことが多かったという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しかし、この辮髪の拒否が受け入れられず、交渉は一時決裂。
その後、鄭成功は態度を軟化させ、使者や貢物を清朝に送り、交渉を再開させる。
清朝も、投降した鄭成功の父を交渉に使い鄭成功を説得するが、最後には辮髪の問題で決裂。
しかしこれは一説には、鄭成功の時間稼ぎであったとも言われている。
1659年、鄭成功は他の反清朝勢力と共に、清朝に侵攻を開始。
長江、南京、鎮江、一帯の占領するも、清朝の反撃に廈門まで撤退を余儀なくされる。
しかし、この時同時に北京に蔡政という密使を送り和睦を計っている、しかしこれも辮髪の問題で決裂。
この侵攻以後、貿易にもかげりが見え始め、鄭成功も焦りを感じ始めていた。
そんな時、元父が所属していた『海獠』(ハイリァオ)集団の頭領で現在はオランダ政府と台湾のパイプ役となっている何斌(フービン)という男が、オランダ政府の使者として廈門を訪れた。
しかし、その交渉のさなか、オランダ政府に何斌(フービン)の不正行為が発覚、その追及を恐れた何斌(フービン)は、台湾南部の詳細な地図を手土産げに鄭成功の保護を受ける。
そして何斌(フービン)は、行き詰っていた鄭成功に台湾攻略を提案する。
その理由は、『台湾は農業に適した肥えた土地が大く、そのうえ硫黄も採掘でき、自給自足も容易い。
さらに島の位置も貿易に最適、すでに港などもオランダが整備してくれていて、さらに船の製造も可能。
兵士を移住させれば10年で根付かせ、新たな兵力の増強も容易い、その上、清朝と戦う上で、適した位置にあり攻撃するにも引くにも最高の場所である』
この言葉を聞いた鄭成功は、台湾攻略を決意、ほとんどの部下はこれに反対したが、その反対を押し切り1661年4月鄭成功は二万五千の兵を率いて、彭湖を攻めた。
その後、八ヶ月に及ぶオランダ軍との戦いを制して、鄭成功は台湾の制圧を完了、オランダは完全に台湾から撤退、38年に及んだオランダの植民地支配は終わる。
しかし、翌年1662年六月、鄭成功は清朝打倒を果たせぬまま突如死亡、享年39歳。
一説には、清朝が投降していた父親、その他親族11名を処刑、それを苦に狂い死にしたなど、色々な説があるが、正確な死因は不明。
鄭成功の死後、台湾は鄭氏に統治下に入る。

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