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2006年8月11日 (金)

東寧王国の台湾統治 2

東寧王国の成立

台湾に撤退してからの鄭経は、清朝の打倒を諦めた様である、この頃、腹心の陳永華や清朝の使者にも全く清朝打倒の意思は無いと伝えている文献が残されている。

東都の名を東寧と改め東寧王国成立させる。

貿易相手の西洋諸国もこれを認めたようで、鄭経を「The king of Tyawan」と呼び、書面で陛下という言葉使っている。

鄭経は実際の政治はほとんど腹心の陳永華に任せている、以後陳永華主導のもと儒教教育と国際化という二本柱で王国は運営されていく。

まず儒教教育の手始めとして1666年今も台湾に残る聖廟を完成させ、ここを儒教教育の総本山的位置づけとした。

そして中国の科挙制度を導入、積極的な人材の発掘に努め、地方の自治制度も中国にならった。

そして、台湾の貿易に有利な条件を生かして、今まで通り貿易に力を入れていく。

1670年にはイギリスと公式な通商条約も結んでいる。

しかしあまりにも貿易に力を入れる政策は国内に、徐々に重商主義を蔓延させていった。

東寧王国の終焉

1673年に清に対して雲南省の呉三桂と福建省の耿静忠と広東の尚可喜が反乱を起こす。

三番の乱である。

1674年自分の軍事力に自信が無い耿静忠は経に対し漳州と泉州の支配させる事を条件に出兵を要請。

経はこれに乗る。

陳永華に国を任せて、経は自ら軍を率い中国大陸に赴いた。

耿静忠は、経の軍団の実力に疑問を抱いたようで、経との条約を破棄する。

その為、経は孤軍奮闘、海澄、泉州、漳州、潮州を占領、福建省と広東近海の海も制海権も奪う。

そして広東に進軍。

この戦いぶりを見た耿静忠は経との関係を修復しようとするが、経はこれを拒否。

その後、清の軍団に包囲された耿静忠は、清に投降、そのまま清の軍団に編入され経と戦う。

耿静忠の軍団も加えた清は、反撃を開始。

この反撃を押し返せず経は、廈門 金門 まで撤退。

清は投降した者に賞金与え、反乱軍の切り崩しを図る、これに投降する者が続出。

1679年清は総攻撃を開始、1680年2月経は台湾に全面撤退、戦の始まりから六年が経過していた。

この六年の戦いで東寧王国は経済、軍事力共に修復不可能な打撃を受けていた。

1680年にはイギリスも東寧王国に見切りを付け、商館を撤収させている。

経が台湾に戻って五ヵ月後の1680年7月経を政治面から支え続けた陳永華がこの世を去る。

二度に渡る清打倒の失敗、陳永華の死、経は酒に溺れ1681年、父成功と同じ39歳でこの世を去る。

経の死後一族の中で、血で血を洗う後継者争いが勃発。

それを制したは溤錫範。

幼い鄭の血を引く鄭克塽(ジェンカァシュアン)を後継者にすえ、自分はその後継人として、自分の意に沿わぬものを次々と、排除していった。

しかしその強引な政治に、国民は動揺、先住民族たちも反乱を起こす。

混乱の東寧王国、これを好機と観た清は武力解決に乗り出す、元成功の部下で清に投降した施琅(スーラン)に
東寧王国討伐を命じた。

1683年六月、二万の軍勢と三百隻の軍艦を率いて施琅(スーラン)は彭湖列島に上陸、彭湖列島を守護する劉国軒と激しい戦いを繰り広げられる。

結果は、劉国軒は台南へ敗走、武将41名が戦死、武将155名兵士4800名が投降、軍艦100隻あまりが沈没という圧倒的敗北に終わる。

この知らせを受けた東寧王国では、一部の人間がフィリピンのルソン島に逃げ延びて反撃をするなどの主張をしたが、7月19日に施琅(スーラン)の使者の投降勧告を受け入れる事が決まった。

8月13日施琅(スーラン)が台湾に上陸、五日後の18日、頭を弁髪にした鄭克塽(ジェンカァシュアン)と武将文官合わせて100名が投降した。

王国の誕生からわずか10年、東寧王国は滅亡する。

これ以後、台湾は清によって、統治される。

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